「世の中には 2種類の人間がいる。『知る者』 と、そして 『知らざる者』である。」
ある日私はそのことに気がついた。
生きていく上で知っておくべきこと
ここでの「知る」ということの ”対象” というのは、単に何か特定の物事に詳しい人間と、そうでない人間の違い、つまり「情報の非対称性」といった類のことを指しているわけではない。
私が言いたいのは、「自分の生きたい人生を生きる為には、最低限知っておくべきこと、というものが世の中には存在する」ということだ。
単純に考えてみよう。
- 多くの人は「お金持ちになりたい」と願う。けどその一方で、真剣にお金について勉強をし、どうすれば本当にお金持ちになれるか計画を立て、そして実際に行動を起こすという人はそのうち何人いるだろうか
- 多くの人は、その国の政治・政治家を批判する。でも、本当に自分が想い描く理想の社会を実現しようと政治家を目指す人、政治活動に積極的に参加する人は、そのうち何人いるだろうか。
- 多くの人は、法秩序を中心とした世の中の一定の仕組みの中で生きている。でもその仕組みについて、自分に関係のある部分だけでもしっかりとした知識を身に着けようと学ぶ人は、そのうち何人いるだろうか
つまり、「経済活動」や「法」、「政治」「科学」から人間の「心理」に至るまで、まだ解明されていないものや解決が困難な問題も含め、世の中には「知る」対象というものなんていくらでも存在する。
生まれて死ぬまでに、森羅万象について理解し尽くすことのできる人間は、おそらく存在しない。けど、人は皆、世の中のほんの一部、自分が生きる狭い狭い世界の中での出来事に対してのみに意識を向け、場合によってはそれすらも理解することなく、生涯を閉じることになる。
『私には特殊な才能などありません。ただ、熱狂的な好奇心があるだけです。』
世界的物理学者アインシュタインは、こんな言葉を遺している。
20世紀最高の頭脳とまで言われたアインシュタインですら、森羅万象について理解していた、とまでは言えず、ただ好奇心の赴くままに真理を追求し続けた、ということだ。
私達が生きていく中で「知る」ことのできる事象などというものは、本当に僅かなものだということがわかるだろう。
では、私達が生きていく上で ”知っておくべきこと”、”知っておかなければならないこと” というのは、一体どういったものだろう。
現代では、インターネット環境の急速な浸透に伴い、様々な情報が、まさに氾濫状態にある。
そんな情報過多の時代で、自分の目で物事の真理をしっかりと見極め、自分の人生に必要な情報、役に立つ情報というものを賢く取捨選択しながら生きていく力が必要とされているわけだ。
しかし実は本当に大切なことというのは、そういった単なる「知識」を得るといったレベルの話ではない、と私は考えている。
つまり、私の思う「知る」ということは、『 ”自分の人生をより充実したものにする” ために「知るべきことがある」、ということを意識する、そのことに気がつく」という意味での「知る」なのだ。
「搾取する側」の人間と、「搾取される側」の人間
世の中の人は 2種類の人間がいる。
「搾取する側の人間」と「搾取される側の人間」だ。
これは、民主国家において、一種の秩序形成のための知恵から生まれた結果であると私は考えているのだが、すべての人に、人として生きていく上での権利が平等に保証されているという大前提があった上において、法秩序に代表される人類の知恵がこれまで何千年にも渡って積み重なり、人々が安心・安全に暮らすための仕組みとして産まれた社会構造の二次産物こそが、この二者間の差となって現れているのだと思う。
対立する二者間における「平等」、「対等」という関係性は、物事を前進させるには障壁となるリスクもはらんでいる。
対立要素を含む二者間に、わずかにでも決定権の差があった方が、物事はスムーズに前に進む。
しかし、その差以上に、利害関係の対立する者同士を同一方向へ進めるために最も大切なことは、「お互いを想いやる気持ち」だ。
上下関係が存在する二者間で、上に立つものがある決定を下す際、そこには上に立つ者自身の利に叶うものである以上に、下の者にも利益をもたらすという部分が不可欠だ。
- 国民の代表である政治家が、より良い国民生活を実現するために、法制度を整備していく
- 従業員の代表である社長が、より良い会社を創り上げていくために、日々決断を下す
- 一家の代表であるお父さん、お母さんが、より良い家庭を築き上げるために、舵取りをしていく
そんな姿が理想的と言えるのだ。
「何を綺麗事言ってるんだ。」「ゴタクを並べるな。」
そうお感じかもしれないが、高度に成熟化した思想を持つ者同士でさえ、いや、そういう人こそ、このシンプルな「真理」に辿り着くことができず、自らの利益に固執したり、相手側のダメージを大きくする事にフォーカスしてしまう傾向が強いと感じることがある。
つまり、「搾取する」側は、多数派が満足し、少数派にも配慮された全体最適の姿を理想とし、「搾取される」側の視点を常に考慮する必要があるわけだが、「搾取する側」と「搾取される側」に分類される、という考え方がネガティブに捉えられてしまう問題の本質的な原因というのは、「搾取」という言われ方がよくないのではいかと思っている。
これはおそらく、それこそ「搾取される側」の人間が言い出したことであることは容易に想像できる。
なぜならば、もし搾取する側の人間が本気で搾取することを考えているとすれば、もっと搾取される側の人間に配慮した言い回しにするであろうからだ。
つまり、搾取する側の人間の最終目的は、搾取すること自体にあるわけで、搾取される側の人間が気持ちよく搾取する側の人間に自分の権利等を差し出してくれさえすれば、搾取する側の人間にとっては、目的達成となる。
そしてそのためには、搾取する側の人間は搾取される側の人間があたかも自分に利益があるかのように見せかけて振る舞うのが最も賢いやり方だということになるわけだ。
ご理解いただけただろうか。
誤解を恐れずに、このことをものすごく平たい言い方に置き換えるとするならば、結局のところ、
「世の中は、頭の良い者勝ち(心理的にも然り)」
ということになる。
しかし、本当に頭の良い人というのは、それを表立って口にすることは絶対にない。
当然だ。可能な限り相手に気付かれることなく「搾取する」方が楽に目的を達成することができるからだ。
最も解り易い例が、「増税」問題である。
まず、税制について取り仕切る財務省のお役人達というのは、「税収を増やす」ということが、個人的にも、組織としても常に至上命令として掲げられている。
したがって、ある一般企業における営業部署が、営業数字を日々の目標として営業活動に勤しんでいるのと同じ様に、彼ら財務官僚達は、税収増に向けて日夜知恵を絞り、実現を目指して奮闘しているわけだ。
今の日本の財政問題について語られる際、
「国の借金を日本国民一人当たりに換算すると、、」
という言い方を聴いた事がある人も多いだろう。
実はこれも、最も解かり易い「搾取する側」の「洗脳」だ。
問題をシンプルにして、よく考えてみれば、誰にでも解ることなのだが、そもそも ”借金”というのは、「借りているお金」と書くわけで、当然のことながら、その反対側には絶対に「貸している人」がいなければならないことになる。
当たり前過ぎる話だ。
でも、国の借金という話になると、とたんにその考え方を忘れてしまう。
国民一人当たりにつき、○○万円の借金がある、と言われても、あなたは借りた覚えがあるだろうか?
では、誰が借りているのか?
それは文字通り、『国(=政府)』だ。
中には個人的に本当にそれぐらいの借金ががあるという人もいるかもしれないが、そうした場合には、それは誰から借りたものなのか?多くの場合は、
銀行(を中心とした、金融機関)であろう。
つまり、銀行がその人にお金を貸している、という状況だ。
整理してみると、あなたが働いて得たおカネを銀行に預ける。
すると、銀行は、そのおカネを誰かに貸して、金利を得ようとする。
銀行の本業とは、簡単に言えば「カネ貸し」であり、銀行自身がおカネを預けてくれた預金者に支払う金利より、銀行が誰かにおカネを貸した際に受け取る金利を高く取ることで、その金利差(「利ざや」と言う)を得て、儲けを生み出しているわけである。
そしてもし、銀行がおカネを貸す相手が「国」になった場合(銀行が国債を購入した場合)、「国」が銀行に ”借金” をした、という構図が成立するわけだ。
でもその銀行が貸したおカネというのは、元はと言えば、国民一人ひとりの、つまり ”あなた” のおカネであったはずのものだ。
もうお解りいただけただろうか。
「国の借金」と言う場合、それはあくまで「国」の借金であって、あなたの、ひいては国民一人ひとりの借金、ということには成り得ない。
「日本という「国」は、国民みんなのものだから、国の借金は国民の借金、という言い方は間違ってないじゃないか。」
そう思った人は、「公務員」と一般人の違いや、「文民」という言葉について学んでみられると良い。
公権力を持った人間や、国を動かす人間というのは、時として、明らかに国民と利害が対立する局面というものに出くわすことがある。
そしてそうなった時、為政者は、公の利益だという大義名分を盾にして、国民の利益を損ねる判断をするということが往々にして起こってきたのは歴史が証明していることである。
少し話が逸れてしまったが、要は、お国を動かすお役人のお偉いさん達が、様々な言い回しや、難解な論理を用いることによって、さも国民に責任があるかのように煽り、税率を上げようとしているという構図があるということだ。(話を単純化するため、プライマリーバランスの正常化や高齢化による社会保障費の財源確保の問題等に対する増税議論といった論点については割愛。)
(参考)
「麻生太郎氏による「日本の借金」の解説が超わかりやすい 「経済をわかってない奴が煽っているだけ」
もちろん、官僚、お役人たちというのは、崇高な信念を持ち、この国の未来を案じて真剣に日本を良くしようと、寝る間も惜しんで働く、日本でも有数の頭脳を持った人達だということは事実ではあるのだが、その一方で、こうした搾取する側と搾取される側が存在するという構図があるということも、知っておいて損はないはずだ。
つまりここで言いたいことは、私達が知って置かなければならないことというのは、
『世の中で起こっている事の本当の意味や狙い、その裏にある動きや真の目的は何なのか』
ということを見極められるだけの頭、予備知識を持っていなければ、いつまで経っても「搾取される側」から抜け出せず、負の連鎖を断ち切ることはできないということなのだ。
そして悲しいことに、多くの場合「搾取されている側」は、搾取されていること自体に気づくことすらできていない場合が多い。
あなたも今すぐそのことに気が付き、そうならないための知識を身に着けていこう。
関心を持つことの大切さ
今お話した「国の借金」についての話は、搾取する側とされる側という二者が存在するということを表す、非常に解かりやすい例えだが、もっと身近な場所でも、この手の事象というのはいくらでも起こっている。
一見、こちら側に利益がある、または非があるように思わせておいて、実はそこには「からくり」のようなものが存在し、「搾取する側」の戦略にまんまとハマってしまっていた、ということが、あなたの知らず知らずのうちに起こっているのだ。
そうなると「自分が「搾取する側」に回るために何が必要か。」そう発想する人もいるのだが、それは間違いだ。
我々は「搾取する側」に回ろうとするのではなく、まず第一に「搾取されない」ための防御力を身につける事が必要になるのだ。
そうすることで、必然的に「搾取する側」にいる人間の、搾取するためのハードルは一気に上がってくるからだ。
そしてそのために大切なこと、搾取されない人間になるために重要な行動、それが、
「関心を持つ」
ということだ。
無関心が最も危険である。
世の中の仕組みを、知る。ものごとの本質を、知る。起きている事象の本当の意味を、知る。
そうした「知る」努力こそが、自分のみを守るのだ。が大切なのです。
「無知」は悲劇を生む。
自分の人生、家族の人生を、他人の手に委ねることなく、自分の手によって充実させていくためにも、視野を拡げ、さまざまな社会情勢や仕組みについて関心を持ち、積極的に「知ろう」とする姿勢を大切にしたいものである。
『知る者』と『知らざる者』。
あなたはどっち?